インスタレーションやライブ・パフォーマンスなどをSound Live Tokyoの一環で、オートテアトロ(自動演劇)のインスタレーション「Quiet Volume」を体験してきました。かなり興味深い内容だったので、ちょっと長いですが、その詳細を記したいと思います。
 完全予約制のこのインスタレーションは二人一組で行うもので、場所は広尾にある東京都立中央図書館。予定の時間に行くと係の人が図書館の机へと案内してくれました。ちなみに他と仕切られた空間ではなく、いわゆるパブリックなスペース。勉強する学生や居眠りする老人にまじって2つの席に、それぞれ3冊の本とノート、写真集、
それにiPodとヘッドフォンが置かれていました。係の人に指示されてヘッドフォンを装着したらあとは放置。しばらくは無音。まわりの人は本を読んだり、ノートに筆を走らせたりと能動的に動いているというのに、私たちふたりはヘッドフォンをつけて何もせずにただ待ちぼうけ、何だか変な感じです。
 しばらくするとヘッドフォンからささやくような声が聞こえてきました。「あなたの耳に聞こえてくるのは、まわりの人が本のページをめくる音、咳払い、席を立つ音……」「自分だけが何もせずにそれを観察しているようで、自分だけが道化役のように感じている」!!! まさにその通り。ナレーションの言葉と完全に一致する環境セッティングは超リアルで、ちょっとしたトリップ感を味わうことができました。
 ここからはささやき声に従ってノートをめくったり、積み上げられた本を読んだりするわけですが、まず最初に導かれていったのが、文字の解体でした。例えば、置いてある本を逆さまにして読んでみる。もちろんまったく読めないのですが、本を戻して「逆さのときと同じように記号のように読んでください」と指令が出て、やってみるとできません。なぜなら一文字づつを追わなくても、一瞬見ただけで、だいたいの意味を無意識に把握してしまうからです。つまるところ、文字とは記号的な視覚ツールであるのだと再確認できました(ちょっと目から鱗)。この手の文字の解体トレーニングはさらに続きます。何も書かれていない真っ白な紙に前ページの文章を意識してみたり、ノートを読んでいくと文字の途中が消えかかっていたり、文字が抜けているものを読ませたり。つまり文字とは白い紙の上を走る線で構成される記号であるということを、強く意識させていくものでした。
 文字を記号として解体していったら、次はそこに+αの意味づけをするタームへと移っていきます。まず最初に置いてある本の指定された部分を読みます。それに対してのナレーションは「あなたはどんな情景を思い浮かべましたか?」どんな状況だったのかはうろ覚えなのですが、車に乗っていて坂道を登っていく……ような文章だったので、
僕は勝手に雨の夜の渋谷をマニュアルのROVER Miniで走っていくという勝手な想像をしていました。次に別の本へと移って、ここでようやく二人組が必須である意味が分かりました。それぞれのヘッドフォンから「●●ページの●●行からの部分を指で差して読ませてください」という指令が。ここはお互いに別々の違う部分をどんどん、指で挿しながら急ピッチで読ませていきます。その途中でノートへ戻ると、さっき読んでいた本の続きが書かれていたりして、だんだんとそれぞれの本を隔てる意味合いが薄くなっていきます。この手法は面白いなと感じました。とはいっても、ここまで置いてある本を一冊まるまる読むようなことはなく、ポイントを読ませて、別の本へ進んで違う関連性を持たせていく(関係性といってもかなり曖昧ですが)ことで、本来は一冊の本の中で成立すべき文章の意味が、違った意味合いを帯びていくんですよね。

 次に面白かったのは、相変わらずお互いに指定ポイントを読ませていくのですが、ここからは音読(ささやきのナレーション)が入ってきました。それが書いてある本来の文章を少しだけ違うニュアンスで音読していくのです。そうすると若干文章の意味合いがブレるのですが、大した破綻もせずに読み進めることができます。
このときに感じたのは文字の通りに読まれないと、自分の思い込みで文章の意味合いを予想変換して捉えるクセがあるなと感じたことです。これは普段からもあることで、大体意味をはき違えをするときの「思い込み」から来ることが多いんですが、それがまざまざと分かった気がして、面白かったです。自転車に一度乗れるようになったら、覚えた感覚で毎回乗れるように、文字や単語を理解するときも、瞬時に感覚的に捉えると本来なら3つの意味がある単語でも、どれか1つ(自分のクセ)で理解するというのと同じ感覚ですね。で、それを強烈に感じたのが、一番最初に文章を読んで浮かんだ情景の部分で、これにあった風景を写真集の中から選んでくださいというものでした。
この写真集は車と風景で構成されているのですが、基本的には欧米や中近東ばかりで、自分が想像していたイメージとは全然違ったことです。続いて、その本の別の部分を読むと実はイスタンブールであることが分かりました。もちろん、これは本自体を読み進めたら当然気づくわけですが、これも先ほどの勝手な解釈が生んだことなんだなぁと感じました。
 そして最後にナレーションも図書館のパブリックスペースに戻ってきて、「ヘッドフォンを外してあなたは席を立つ」という言葉でインスタレーションは終了。特に誰かが終了ですと告げに来ることもないので、ちょっと躊躇してから席を立ちましたがそうすると入り口に係の人がいて、アンケートに答えるとようやく「あ、終わったんだ」という意識が出てきました。

 まとめると非常に面白いインスタレーションだったと思います。なんと言っても図書館のパブリック・スペースという空間は良かった。お互いに同じ本を指でさしあってたりとか、はたから見たらやっぱりおかしいわけですし。個人的にはその作業を途中で遮る演出(おじさんがストーリーに意味合いのあることを話かけてくるとか)なんかが追加であったら、もっとリアルとの逆目が曖昧になって面白いなと思いました。この体験でやったことをまとめてみると、まず文字と文章の解体をして、複数の本の一部をすくいつつ、さまざまな方法の読ませ方をすることで、文章のとらえ方を体験していくというもの。なので、最終的に何かしらのストーリーを持たせるのではなく、あくまで「体験」にしぼっているあたりもインスタレーションとしても分かりやすくて良いと思いました。
 これはあとから調べて分かったことなのですが、このインスタレーションでやっていることはソシュールの言語理論の認識方法(シアン、シニフィエ)を、「脱構築」しているんだなということでした。シアン、シニフィエとは言語を記号表現と意味(概念)が結びついているという考え方で、今回のインスタレーションで感覚的に気づいた「文字=記号」というのと、ほぼ同じでした。それを分解して再構築するという意味ではデリダの脱構築とも共通していますね。いずれにせよこういった手法をアートとして体験できるというのは、視点がポップで面白いですし、こういった西洋哲学や言語理論を感覚的に理解できる手法に落とし込んでいるというのは、非常に素晴らしいことだなと思いました。