先日AFTER 25というベルリンのアート、サブカルチャーをテーマにしたカンファレンスが行われました。ベルリンに在住する僕の友人も関わっているとのことで足を運んだのでそのときの模様を軽く紹介しようと思います。このイベントの“25”とはベルリンの壁が崩壊してからの年数。近年では自分の周りの友人たちもベルリンへと移住することも多く、しばしばベルリンの話を聞いていたのですが、このカンファレンスではベルリンが歩んできた歴史(主に壁の崩壊以降)を知ることができて非常に面白かったです。
プログラムのPART1は間に合わなかったのですが、PART2ではベルリンのサブ・カルチャーの発展がテーマで、どのようにしてクラブを含めたサブ・カルチャーを育んできたのかを、ベルリンのクラブコミッショナーやHolzmarkt Projektの代表者などが説明していったのですが、当然そこでは東京のサブ・カルチャーを比較に捉えつつも話を聞いていました。やはり東京というか日本との違いを感じたのは、一般市民はもちろんコミュニティー、さらには公的機関までが、お互いで話合って聞いて受け入れていくいうところ。その点ではHolzmarkt Projektの話がとても象徴的でした。Holzmarkt Projektは壁崩壊以降のベルリンにてスクワッド生活をする人たちが作ったクラブBar 25から発展していったプロジェクトで、最初はクラブ&バーからだったものがレストラン、さらには宿泊施設、そしてそこで暮らすようになった人への教育施設まで……簡単に言うとコミューンですね。で、これを他の国で考えればアメリカでも荒野の奥地、日本でもヒッピーのコミューンは山梨や伊豆、福島などの田舎に存在するもの。ベルリンの面白いところは、もちろんその当時は破格の地価でしょうが、今だにこれが都市の一等地に存在するということ。一度はベルリン・シティの都市開発計画が持ち上がって退去したのですが、さまざまな人たちの投資協力を経て、公的機関が把握しようとした土地を交渉し、競売の末に取り返した……ってすごいことだなと思います。
これに対して日本の例でふと思い出したのは、小平市の幹線道路の建設見直しを求めた住民投票すら不成立になったこと。残念ではありますが日本とベルリンを比較するほどその差は大きいです。ベルリンがなぜこうも今、クリエイティブな街として注目を集めているのかは、テーマにもあった“崩壊”が関係しているのでしょう。ベルリンは壁の崩壊から再生のプロセスを経ることで、時に変化の足かせとなる慣習を取っ払い、お互いが受け入れながら前進することで、こういった民主的なコミュニケーションが成立しているのだと(大ざっぱではありますが)思いました。クラブカルチャーにしても同様で、壁の崩壊以降、ベルリンが培ってきたコミュニティーやカルチャーが、1つの文化として認めれるようにクラブ側からも行政へと働きかけ、そして文化として保存する動きがしっかりとあること。それに比べると日本の場合は風営法からも分かりますが、今だにクラブは文化として認められていません。それに加えてクラブ人口の高齢化が叫ばれる現在ですが、そうは言ってもクラブには、まだまださまざまな文化を吸収できる柔軟な人たちがいるのも事実。今後クラブと関わっていく人たちが、シーンに対して一歩踏み出していく時期にあるんだろうなと、今回のカンファレンスを聴きながら強く感じました。