今年のFUJIROCK FESで初めて来日するフィル・レッシュに当て込んだのか、「ローリングストーン」の日本版に掲載されていたGrateful Deadのジェリー・ガルシアの追悼記事(95年時の逝去時の翻訳)がとても面白かったです。この記事を書いたのは大好きなマイケル・ギルモア。彼は元来音楽ライターですが、彼が書いた『Shoot In The Heart』(日本語訳は村上春樹)で知りました。彼の実兄、マイケル・ギルモアは米国でも最も有名な犯罪者。彼がなぜ殺人者になったのか、一族にまつわる暴力の連鎖の歴史などから、人間の暗部を赤裸々に描いた素晴らしい作品です。その彼がGratefuL Deadについて考察しているのですが、さすがに視点が鋭いのです。
 ガルシアが亡くなったのは1995年のとき、15歳だった僕はもちろんDead体験者ではありません。Deadのことを好きになったのは、1990年代後半くらいから聴くようになった一連のジャム・バンドの影響です。その頃はいわゆるメインストリームのロックにまったく惹かれなくなっていて“もうバンドはダメだ”と思っていました。そんなときにアタマを殴られたほど衝撃を受けたのがBonnaroo Music Festivalのライブ映像。お決まりのポップなフォーマットを逸脱したジャム・バンドの奔放な演奏を見て、こんな刺激的な演奏をする、自分の知らないバンドがたくさんいるんだ!と、大興奮したのを覚えています。その年のトリ前を飾っていたのがDeadのベーシスト、Phil LeshのバンドであるPhil Lesh&Friends。ユルいながらに独特で耳の残るメロディは、初めて聴いたときのインパクトこそ薄いものの、その後じわじわとハマっていき、最終的にBonnaroo行きのチケットを買って、Philのバンドを観に行くというところまでいきました。そのときに見た景色、音、感覚は今でも鮮明覚えています。ずいぶんと遠回りはしていますが、Deadの音楽は、僕にとって特別な存在です。

 話をもとに戻すと、Grateful Deadは1960年代よりサンフランシスコで活動したヒッピーカルチャーの申し子であり、当時のヘイト・アシュベリーのリーダー的存在として、一時はアメリカ政府からもその存在を恐れられていました。ビートニク、ドラッグによる意識の開放、反体制といったヒッピー思想を胸に全米中の若者が集ったヘイト・アシュベリーはそうそうに破綻しましたが、Dead自体はその後も長年ライブ・バンドとして活動し、デッドヘッズ(デッドのファンね)を全米中に生み出し、テーパー文化(ライブの録音を許可してファン同士が録りあった音源をシェアすること)や大規模なコンサートPAシステム構築の先駆者でもあり、レコードを出さずにライブを主体にした活動をするなど、常にインディペンデントな姿勢を貫いたアメリカ・アンダーグラウンドを代表するバンドです。彼らが活動した30年間の歴史について、ここれは詳しくは書きませんが、先日、同時代に活躍したJefferson Airplaneのベーシスト、Jack Casadyにインタビューする機会があったので、そのときに感じたCasadyとPhilの共通点を少々。DeadもJefferson Airplaneももともとフォーク/カントリーをやっていて、Deadの場合はビートルズの影響を受けてエレクトリック楽器にシフトし、Jefferson Airplaneは実験的な音楽を指向していきました。そして彼らの即興音楽の中で特に独創的なのはベース・パート。ギターはともかく、特にCasadyとPhilが手にしていたベースに関しては、彼らがエレクトリック・ベースの“第一世代”でした。Casadyもそうでしたが、エレクトリック・ベースを演奏している演奏者自体がまだ少なかったので、誰からも影響を受けることなく、自分で演奏方法を生み出していったようです。特にCasadyとPhilではお互いにクラシックの影響が強いところも共通点ですね。あとはアシッド・テストの力を借りて、そのフィールを演奏にフィードバックしていくというものしかり。それは演奏を通しての観客との対話でした。
 ローリング・ストーンの記事でギルモアも「Deadはアシッド・テストの背景にあった哲学を決して忘れなかった」と書いていましたが、そこがDeadの一貫した即興演奏と音楽性につながっていたのは興味深いです。そして逆に、それがなかったJefferson Airplaneは、(失礼ですが)とりとめの無い、ただのポップス・バンドへ成り下がっていったのだと思います。そしてギルモアの視点でもう一つ感銘を受けたのは「メディアもデッド・ヘッズも、ガルシアとDeadの音楽に浸透する暗鬱さを忘れている」という指摘。まさにダークサイドを掘り下げてきたギルモアならでは視点でではあるのですが、実際に「ワーキングマンズ・デッド」のような柔らかなフォーク・ソングに乗せて混沌や崩壊を歌っていたり、また「アオクソモクソア」や「太陽賛歌」などからは、アシッドのダーク・サイドを想起します。ジェリーの優しく語りかけるような歌、そしてバンドの弛緩的な演奏など、Deadというと“ユルさ”が目立ちますが、実際にはすごく陰陽があり、そこかしこに狂気をはらんでいるのが彼らの魅力だと思います。そういう意味ではアシッドの世界観とも言えるのでしょうが、それをアメリカン・ミュージックとして体現しているのが、Grateful Deadというバンドなのだな、と思っています。
 もうひとつ、同じ記事には2012年にPhilがガルシアとDeadについて語るインタビューがあるのですが、これがまた素晴らしい内容でした。優れた音楽家は感覚的にどこか超越した部分があるものですが、Philが演奏について語るとき、しきりに「宇宙のパイプラインから流れてくるものを奏でる」というのですが、これはボブ・マーリーのファミリーマンなら「ジャーのメッセージを奏でる」、ブーツィー・コリンズなら「ハートから湧き出るものがファンクなんだ」という発言と同じです。ジャンルこそ違えど方向性は共通しているわけで、ある意味でこういう感覚肌な音楽家はシャーマン的な要素も強いのですが、Philもその類の演奏家なんだなと思います。そしてガルシアを失ったことについて、「30年間培った集合精神にに空いた穴を埋めるのは不可能。その穴はそのままにしておくつもりだし、この穴自体を僕らは愛している。だから生き続けるために演奏し続けるんだ」。現在のフィルが演奏するのは年間を通して200日くらいと、とてもガンを乗り越えた人間とは思えない超人ぶりです。
ちなみに現在のPhilは「テラピン・クロスローズ」というクラブ兼レストランを経営していて、そこで息子たちとともに演奏するバンドを引きつれての編成が今回のフジロックに出演するテラピン・バンド。正直Phil & Friendsのようなスケールの大きい演奏は期待できないかもしれませんが、それでも、今のPhilが持つメッセージを受け取りにいくだけでも、価値のある公演になることは確信しています。

GD